神との闘い

神やワンネスな存在と戦っているサイト。

2022年01月

私がスピリチュアル界隈で嫌いな考え方の中には次のようなものがある。

すべては心の持ち方次第、考え方を変えるだけですぐに幸せになれるというものだ。

こうした考えの裏には物事には良い面悪い面の両方があるという彼らの考え方がある。いわゆる二元性というやつだ。スピ界が大好きの。

で、私はこうした考えを非常につまらないものだと思っている。大した価値はない。

この手の世界の見方を変えるだけで幸せになれますよ系の考えで幸せになれるのは、主体性のない曖昧な自我の持ち主だけだ。流されるのが好きな者たち。

普通、人間というのは人格があり、これが好きあれが嫌いというような好みがある。もちろん人生の経過のなかでそれが変化することはあるが、あらゆる事象の変化に対応して都合よく人間の好みが変わるなどといったことはまずない。それができるしたらその人物はほとんど己というものを持たない存在だと思っていいだろう。

だから結局、物事の捉え方を変えることで幸せになれますよ系の考え方には限界があるのだ。それも非常に低いラインで。

お腹が空いたから苦しい、でもそのあと食べる御飯はとても美味しい。ここには良い悪いの2面性があるとスピ界の者は思うだろう。

しかしだからなんだというのだ。そんな当たり前のことで人は喜びなどしない。空腹はただ不快なだけだ。そりゃあ良い体験だったと思う時もあるだろうが基本的には不快なことなんだよ。わざわざそこに良さを見出そうなどしない。無理にそう思い込もうなどしない。

このようなことは空腹などといった小さな日常的出来事以外にも存在する。

たとえば病気だろうか。よくあるのは病気になったからなにか重要なことに気づけた、病気になってよかったって考えかな。愚かだと思う。大切なことなら病気にならなくても気づけよと。

そもそも病気になってよかったと考えること自体が気に入らない。病気というのは辛く苦しいものだ。痛みも恐怖もある。家族に心配させているという辛さもある。お金の問題もだ。それのどこが良いというのだ。病気になって経験に感謝するなどと言うのは、今の自分が幸せだからできる傲慢な考え方に過ぎない。

だいたい大切なことなら病気にならずとも気づけばいいんだよ。こうした病気とか事故をスピリチュアル的なものの導きであるとか、己の霊的成長のために必要な出来事として捉える考え方があるよな。私の嫌いなものの一つなのだが。どいつもこいつも同じようなこと言いやがってと。

そんなに成長したり、特別なことに気づいたりしたいのなら、なぜ病気や苦しみ以外の方法でそれをしようとしない?なぜ苦しみに肯定的な評価を与える?バカバカしいことこの上ない。
昔から宗教なんかは神の試練とかいう欺瞞を使うよな。こうしたことの説明に対して。現代スピも同じようなものだ。カルマの解消のために感情を動かす必要があり、だから苦しくなるような出来事が起こるだとか、苦しい体験を通して何かを学んでいるのだとか言いやがる。

どうしてもそこには苦しみに肯定的な評価を与えたい考えがある。苦しんでる人間のほうが正しい生き方を歩んでるって考えたりしてる。だがはっきり言うが別に苦しんでなくても正しい生き方はあるし、楽しく病気にならならず元気に暮らしていても正しく成長していける生き方というのは存在する。

嫌いなものを嫌いといい、悪いと感じるものを悪いと言う。不幸を不幸であるというそうした普通な考え方だとしても幸せになれるのだ。

というかスピ的な非常に愚かな解釈で世界を捉える行為で幸せになれるのは愚かな人間や主体性の欠如した生命くらいだろう。しかもその幸せというのはささいな幸せでさえないただの欺瞞である。

二元がどうとか、この世界が嘘偽りであるなどといった考え方では幸せになどなれない。幸せになれるのは主体性の異様に欠如した悟り人間くらいである。それは生命とは言わない。かと言って物体でもない。ただ生きることも存在しないこともできず、苦しみを受け流す思考しかできず、何も生み出すことができない醜い生き物なのだ。

ブログをはじめた。

神やワンネスを倒すために。

そこから人間を解放するために。

どんどん攻めていこう。やつらに自分たちがどういう存在なのかを思い知らせるのだ。

恐怖せよ、神、ワンネスども。

自らの行いを悔い改めよ。

↑このページのトップヘ